プロフィール

Nobuyuki Takezawa

Author:Nobuyuki Takezawa
電子書籍のトビラへようこそ!

当ブログでは、私の発行済みの電子書籍を紹介をしております。また、楽しんで頂けるようエンターテインメントブログを目指しています。ごゆっくりお楽しみ下さい。

※プレビュー画像はかなり美化しております。こんなに若くありませんしm(_ _)m でも、カラオケ好きなのでマイクを持たせました※

タグロゴ

カテゴリ

最新記事

CMエリア②

最新コメント

月別アーカイブ

FC2掲示板

ブロとも申請フォーム

RSS

【魚眼風景】

魚眼風景

魚眼風景

 今日は朝からなんだか変な気分がずっと続いています。コーヒーはまるで雑巾の搾り汁みたいだし、食パンもベーコンエッグも紙粘土みたいな味がしました。

 きっと空は透き通るように青いはずなのに、黄色っぽくてマーガリンのような匂いがします。駅前通りの街路樹の下ではメタンガスが香っていました。古く寂れた商店街は、マネキンが店番をしているみたいに見えました。

 学校に着いてからも落ち着きません。これは昨日、好奇心から吸ってみた煙草のせいだろうかと思いました。

 「そうだ。多分そうだ。いや、絶対そうだ」

 僕は口に出して自分に言い聞かせました。すると、近くに居たクラスメイトが何人か振り向いて、怪訝そうな表情で僕を見つめるのです。僕は慌てて現代国語の教科書で顔を隠しました。もういいだろうと教科書を机に倒して、彼らの方を見ました。彼らは笑うでもなく、嘲るでもなく、僕の顔をジッと見つめているのです。おさげの可愛い少女も、五分刈りのいかつい野郎もいつもは気軽に話し合える仲なのに、僕をまるで変な物のように見つめるのです。

 彼らの視線は顔にべっとりと張り付く無形の鳥もちです。鼻と口と耳の穴から頭の奥まで入り込み、魂までねとつかせるのです。僕は彼らから目を逸らすのに1キロメートルを全力疾走するのと同じ位のエネルギーを使ってやっと成功しました。

 どうしてそんな目で僕を見るのか、彼らを問い詰めてやろうと下を向いたまま席を立った丁度その時、先生がやってきました。

 僕を見つめていた連中も、窓際で話し込んでいたグループも、走り回っていた奴等も、肩を寄せ合っていた恋人達もみんな五秒以内に自分の席に着いて、各々鞄や机の中から教科書やノートや筆箱や下敷きを取り出して、一様に背筋を伸ばしたのです。僕は何がどうなったのかさっぱり訳が分からず、ポカンと口を開けていました。

 何が起こったのでしょうか。何故かれらは独り言ぐらいであんな気持ちの悪くなるような目で執拗に僕を見つめたのでしょうか。そして、いつもは先生が来たって知らん振りを決め込んでいるのに、今日に限って申し合わせたみたいに自分の席に着いたのはどういう事なのでしょうか。

 いくら考えても答は分かりません。胸の中に疑問が山積みされて行きます。それは疑問というよりは不思議と形容した方がいいかもしれません。

 今朝の食事や街の様子、そしてみんなの行動。その行動がさも当たり前だと言わんばかりの先生の態度(彼は平然と教壇に置いたプリントの束を指をなめては数えているのです)と言い、何かとてつもなく不自然です。

 とにかく、暫くは事の成り行きを見守る他にはどうしようもありません。テレビを観ていて急に『しばらくそのままでお待ち下さい』と表示された時の様に、半ば諦めて待つのが良さそうに思えました。

 先生は、数え終わったプリントを配り始めました。僕の所にもプリントが届きました。それはテストでした。でもまだ授業で習っていない範囲です。

 プリントを全部配った先生は、クラスのみんなを見渡し、大きく頷きました。するとみんなも先生と同じように頷くのです。それは機械人形の正確さと自動人形の受動性を足して2で割った動きなのです。なんだか、教室が玩具箱になってしまったみたいでした。不思議がまた一つ増えました。

 「ねえ、君。今日テストがあるって知っていたの?」

 僕は、このままでは心が不思議だらけでパンクしてしまいそうだったので、手近な逃避の行動を取りました。隣の席の女子に声を掛けてみたのです。

 僕は小さな声でその女子にだけ聞こえるように声を掛けたはずなのに、なんとクラスの全員が一斉に僕を見たのです(視線に音があるのをこの時初めて知りました。確かに『ジッ』と言う音と共にみんなが見たのですから)。

 僕は慌てました。先生とクラスの全貝から黙って見られているのです。今度は教科書ぐらいでは顔を隠せません。俯いたり、頭を掻いたりしてなんとかみんなの視線から逃れようと椅子の上で身をくねらせていました。

 社会科教室にある世界地図があったらなあ、などと想像しました。壁いっぱいに広がる地図を纏うのです。アメリカ大陸を背負ったところで、目の前に立っている先生と目が合いました。

 ダブルのネズミ色のスーツに銀縁メガネ、一握り残った頭の毛を揺らし、煙草のヤニの匂いを撒き散らし、細い目を更に細めて僕を見下ろしているのです。そして先生は僕の横に身を屈めてニッコリと、クラスのみんなを見渡していた時とは別人の顔で、微笑みました。

 「昨日の夜、何をしていた」

 先生は、心臓が飛び出してしまうのではないかと思うほどの凄みのある声で僕に囁きました。僕は喉の奥から込み上がってきた心臓をゴクリと元の位置にまで呑み下ろして、何とか声を絞り出しました。

 「昨日の夜って…」

 何の事ですか、と続けなければならないのに、僕はそこで口ごもってしまいました。ドギマギする胸を抑え、質問の意味を考えました。もしかするとこの一連の奇妙な出来事の答えが先生の質問の中にあるのではないかと、そんな気がしたのです。そこで、正直に話しました。

 「えーっと、十一時頃からラジオの深夜放送を聴いて、一時頃には寝ました」

 「とすると、君は社会見学に行かなかったわけだ」

 と言い終わると先生はスックと立ち上がり、元の細い目に戻ってみんなを見渡しました。それから首を横に一回、縦に二回、最後に斜めに一回振ったのです。するとみんなも首を振り、何事も無かったように鉛筆を持ち、テストの答えの欄をせっせと埋めて行くのです。

 先生は僕に向き直り『ちょっと来なさい』と言って教室を出て行ってしまいました。僕は戸惑いながら先生に着いて行きました。

 「さあ。こっちだ」

 僕が教室を出て、後ろ手で教室の引き戸を閉めている間に、既に先生は廊下の遥か遠くの方まで行っていました。そして大声で僕を呼ぶのです。僕は先生に追い着く為に走らなければなりませんでした。『ぐずぐずするな』とか『急げ』とか言いながら先生は先に先に行ってしまいます。廊下の曲がり角まで来ると、後数メートルで追い着けそうになるのですが、曲がり終わるともう先生はずっと先まで行っているのです。僕はただひたすら一所懸命に付いて行きました。

 先生は大声を出します。僕はバタバタと大きな音を立てて廊下を走ります。でもどのクラスの人達も僕達に注意を払いません。

 職員室の前を通った時もその出入り口に『廊下を走るべからず』と和紙に墨で書かれた張り紙がしてあるのに、開けっ放しのドアの中から僕達に注意をする先生はいませんでした。オールバックの黒髪にポマードをテカテカに塗り込んだ教頭も、狸顔の校長も事務に夢中で知らん振りです。

 驚いた事に、僕と親しく、いつも親身になって話を聞いてくれる美人の古典の先生までもが僕を一瞥しただけで、そっぽを向いたのでした。その他の先生達も僕達を全く無視していました。

 何度も廊下を曲がり、突き当たった所の螺旋階段を降りた時に、ようやく先生に追い着きました。

 「さあ、ここだ」

 やっと追い着いたと思ったら、そこが目的地のようです。『入れ』と先生に言われた場所は地下室でした。僕は重い鉄の扉を開いて中に入りました。

 十二畳ほどの煉瓦壁の地下室には、薬品棚があり、乱雑に透明で茶色い薬瓶が並べてあります。床には研究書類の様な紙が散らばっています。部屋の隅には事務机があって、白髪の、白衣を着た老人が椅子に腰掛けていました。

 「どうしました?」

 と老人が言いました。

 「社会見学に行っていないのです」

 先生が心配そうに僕を見て言いました。

 「ほう、それは大変」

 老人は両手の手のひらを顔の横で広げて驚きました。

 「では、よろしくお願いします」

 先生はそう言って僕を残して部屋を出て行きました。

 「驚いたねえ、驚いたねえ」

 老人は白髪を逆立ててひとしきり驚いてみせました。その後、老人は僕の住所や名前や性別まで訊いて、それらの情報を何かの用紙に書き込みました。

 それより、驚いたのは僕の方です。学校に地下室があるなんて全然知らなかったし、こんな老人が居るなんてもちろん知りませんでした。それに、昨日の夜中に学校全体で社会見学をやったと老人は言うのです。どうしてそんな事を夜中に行う必要があるのでしょうか。僕の場合は手違いで連絡が届かなかったという事でした。

 「それでは明日の午前零時にここに来る様に」

 老人はそう言うと僕に地図らしき紙を渡しました。そして老人は事務机に向かってなにやらぶつぶつ言いながら書き物を始めました。僕は『失礼します』と言って部屋を出ました。

 螺旋階段を上がりながらこれからどうしようかと考えました。結局、成り行きに任せる他にはないのですが、やはり考えずにはいられないのです。でも、少しして、考えるのもままならない自分に気付きました。頭の中には白い靄がいっぱい詰まっていて、僕はその靄をかき分けて泳いでいるに過ぎないのです。どこに何があるかなど、靄が立ち込めていて何も分かりません。

 「これはきっと煙草のせいだ。そうに違いない」

 廊下を歩きながらそう口に出しました。そして、そう思い込もうとしました。でも上手く行きません。僕はぶつぶつと『煙草のせいだ。煙草のせいだ』と呟きながら自分の教室に戻りました。

 その日の授業は毎時間、全く同じでした。先生が来てプリントを配り、生徒が答えを書き込んで提出し、終業チャイムが鳴り、休み時間が来て、また始業チャイムが鳴り、先生が来て…。その間、クラスのみんなはほとんど同じ動きをするのです。席に着く仕草や、プリントを後ろの席に回す動作、鉛筆を持つ手の動きまでもが同じなのです。良く見れば、みんなの字までそっくりでした。

 下校時間になりました。僕は急いで家に帰ると部屋に鍵を掛けてベッドに横になり、食事もせずに閉じこもりました。考える事が出来ませんでしたから、考える真似だけして過ごしました。ロダンの考える人の様なポーズで、束になった週刊誌の上に腰掛けてみたり、部屋の中を行ったり来たりして腕組みをしたり、勉強机に向かって頬杖をついてみたり…。そんな事をして時間を潰しました。

 「そうだ、社会見学だ」

 突然思い出したわけでもないのに僕は小さく叫びました。思った事を口に出すのは僕の悪い癖です。通学鞄の中にしまっておいた、白髪の老人に手渡された紙を広げてみました。それには次の様なことが書かれてありました。

 『社会見学…社会に貢献する為に、この度造幣局へ社会見学に行く事になりました。次の物を持って来られる様に』

 活字はたったそれだけで、後は造幣局までの案内図があるだけです。時計の針は午後十一時を少し回った所でした。

 出掛ける準備をしようとしました。でも紙に『次の物を』と書かれてあるのにその続きが書かれてないのです。けれど早く出発しなければ間に合わないので、何も持たずに家を出ました。

 夜の街も、朝の街と同じく変でした。空気は動物性の傷んだバターの匂いだし、夜の闇は黒ではなくて、すべすべした青い闇でした。街路樹はメタンから硫黄の匂いへと変わり、水銀灯の光は半ば固形化して細かい粒になって降り掛かってきます。白熱電球の外灯は黄色い空気のゼリーとなり、その下を歩く時は足が重くなるのです。

 造幣局は僕の住んでいる街の外れにあります。昔から大人達は自分の街に造幣局かある事を誇りに思えと僕達に教えてきました。でも、造幣局が誇りだと思った事は一度もありません。その古臭い、銅の錆びた匂いのする巨大な館がいかがわしく思えるばかりです。

 零時まで後数分という頃に造幣局に着きました。緑色の蔦が絡まるステンレス製の正門は開いていました。僕は躊躇わずに中に入りました。

 「君かね、まだ社会見学をしていないってのは」

 正面玄関の横にある警備室の前に、大きなマスクをして、腹の突き出た男が僕を呼び止めました。警備員の服を着て、腰から警棒をぶら下げています。そしてマスクの下で欠伸をして、面倒臭そうに手招きをしました。僕はなんだか済まない気持ちになり、警備員の後に着いて歩きました。薄暗い大理石の床を、警備員はカツンカツンと、僕はペタペタと音を立てて歩いて行きました。所々の壁や柱に、構内図や、貨幣の見本や、複雑な機械の図面が貼ってありました。

 広い廊下を突き当たって階段を上がると。ぽっかり広がる空間に出ました。それは機械の唸る音のする海のような暗い層を一番下にして、色々な用途の為の階層が幾重にも重なっている長方形の吹き抜けでした。

 僕は吹き抜けの柵の近くまで行きました。こんな時間なのにまだいっぱい働いている人が居ます。ここで働く人々は真夜中なのにも関わらず、目を剥き出し、髪を振り乱して一所懸命機械を操り、よく通る声で喚きながらお金を作っているのです。仏壇みたいな機械装置の前で手を合わせて『インフレじゃ』と叫べば、回り灯籠に青い灯が点きお札が出てきます。膝を立てて『不況じゃ』と叫べば赤い灯が点いて硬貨が出てくるのです。

 警備員は、一面が曇りガラスのドアの前まで来た時、その突き出た腹で僕をドーンと突き飛ばしたのです。曇りガラスのドアは回転ドアになっていました。回転ドアは僕を吸い込んでくるくる回りました。そして吐き出されたのは手術室でした。

 「協同心と自尊心、持って来たか」

 薄暗くて寒いタイル張りの部屋の中央に手術台があり、その横に紫色の手術着姿の人が立っていました。

 「持って来たかと訊いているのだ」

 と言って、その人は革靴を踏み鳴らし、腕を組んで反り返り、僕を睨み付けました。

 「そうか、忘れたな」

 あの、その、と口篭っている問にその人は僕の首根っこをつまみ上げ、手術台に放り投げました。

 「けれどあの紙には持って来る物なんか書いてありませんでしたよ」

 と僕は手術台の上で仰向けになって言いました。

 「見えなかったか。よし、お前には強めの魚眼を填めてやろう」

 とその人はにやりと笑って言いました。

 僕は危機感を覚え、記憶の糸を手繰り寄せました。隅から隅まで調べました。でも、どこにも協同心、自尊心の文字はありませんでした。

 それにどういう事でしょうか。たとえあの紙にそれらを持って来るようにと書いてあったとしても、持って来るとは一体如何なる事なのでしょうか。それは形がある物なのでしょうか。また、仮に持って来たとしたらどうするのでしょうか。

 などとあれこれ考えている間に、手術台に縛られてしまっていました。そして、まるで宇宙空間での太陽光線のように強い光が僕に浴びせられました。僕の視界をちらちらと紫の断片が掠め通ります。

 「あの、これから何をするのですか」

 僕は必至に目を開けようとしながら紫の断片に向かって言いました。

 「質問は後にしなさい」

 と紫の断片が言いました。

 目が慣れてきました。すると紫の断片が紫色の手術着を着た人だと分かるようになりました。多分、医者なのでしょう。

 その医者は薄い青色のゴム手袋を填めて、カルテらしき白い紙を持っていました。医者は紙をどこかに置き、息が掛かるほど顔を近づけ、僕の服を脱がせます。

 「何か変わった事はないのか」

 と医者は言い、僕の乳首の先っぽを指で弾くのです。僕はあまりの擽ったさに笑ってしまいました。

ドスッ

 一瞬、口から胃が出てしまうのではないかと思いました。その代わりに血の混じった胃液が大量に出ました。医者はその逞しい、骨ばった拳で僕のお腹を殴ったのでした。

 「笑わなくてよい。質問に答えなさい」

 これ以上殴られたらたまりません。僕は必至に、素直に正直に話しました。

 「朝食が粘土の味…。学校のみんなが変な目で僕を見る…」

 思うように言葉が出ません。横隔膜が引き攣っています。

 「そうか、これからは大丈夫だ」

 僕の身体を撫で回した医者は注射器を用意しました。何の注射か質問したかったけれど、また殴られたくなかったのでやめました。

 注射針が黄色い液を滴らせて太股の付け根に滑り込んで行きます。そこはたしか太股の大動脈が通っている場所です。

 遠くの方からお金を造る機械のゴウンゴウンという音が響いてきました。寒い。白いタイルの部屋の中で僕は、医者の着る紫の手術着を見ました。それから意識がゆっくりと消えて行ったのです。

 目が覚めるとそこは僕の部屋でした。あれは夢だったのでしょうか。僕は青い縞模様のパジャマを着て、羽毛布団に包まって寝ているのです。カーテンの隙間からは朝日が射し込んでいます。デーデポッポと鳩の泣き声もします。僕はむっくりと上半身を起こし、思いっきり欠伸をしました。

 「変な夢だったなあ」

 僕はいつもの癖で独り言を呟きました。ところが、口に出したはずの言葉が聞こえないのです。アーとか、オーとか色々と声を出してみましたが、やはり駄目でした。でもこれは耳が聞こえないのではない様です。時計の音も、窓の外の道走る自動車のエンジン音も聞こえるのですから。

 大変な事です。けれど、どういう具合に大変なのか実感出来ません。僕の心はいつもと変わりなく落ち着き払っているのです。

 いつまでもベッドの上に居たって仕方ありません。とにかく服を着て、食事をして、それから対策を練るのが良いと思いました。

 足を床に下ろし、スリッパを履いた時です。ポタリ、と何かが落ちました。涙のようです。どうして涙が流れているのだろうと顔に手をやりました。そして目を擦りました。

 「痛いっ!(もちろん声無き叫びです)」

 僕はベッドから転げ落ちました。瞼ではなくて、直接目の玉を擦ってしまったのです。こんな場合は大抵ぎゅっと目を瞑るものですが、なぜか瞑れないのです。僕は机の上に置いてある小さな鏡を覗きました。そこに映っていたのは人間ではありませんでした。ピンポン玉を真っ二つに割って目に貼り付けたような、魚の顔があったのです。

 涙と粘液にまみれている二つの目は紛れも無く本物の目でした。黒目の部分は普通の二倍くらいの大きさで、白目は赤っぽい灰色になってました。

 それまでの僕でしたら真っ青になって絶叫して気絶したでしょうが、今は心も体も何の反応も示さないのです。魚のような目になって驚いているのは心の一部分だけの様でした。その他は、さも当たり前って感じなのです。

 その時、目覚まし時計が七時半のベルを鳴らしました。リリリリンという響きと共に僕は、自然と鏡を見つめるのを止めて服を着替え始めました。そして台所に行き、朝食を摂りました。食事は僕の両親と一緒にします。僕は彼らに一部始終を報告しようとしたのですが、どう頑張っても出来ません。おかしな事に、彼らも魚眼の僕を見ても何もいいませんでした。

 朝食は昨日と同じで、コーヒーと食パンです。口に入れるとやっぱり粘土の味がしました。でもそれは『美味しい』粘土でした。僕はティッシュペーパーの味がする、歯に纏わり付く乳白色のコーヒーのおかわりをしました。

 八時になると僕は学校へ出掛けました。本当は病院へ行って診てもらいたかったのですが、足が自然と学校へと向かって行くのです。

 駅前通りのオゾンの香りは清清しく、黄ばんだ空は実に爽快でした。僕はこんなに異様な顔をしているのに、誰も僕を注視する者は居ませんでした。足元を擦り抜けて行ったブルドッグまでも、僕に関心ないのです。

 学校でもそうでした。クラスの誰も気に掛けてくれないのです。僕は一人でじっくりと今後の対策を練るつもりで自分の席に着こうとしたのですが、すいっとセーラー服の少女と五分刈り野郎の方へと行ってしまい、口が勝手に動き出し『解体は始まっているんじゃないか』と言ってしまいました。すると彼らは僕に合わせて『そうねえ、消化不良じゃない?』とか『いいや、バドミントンをするべきだ』とか言って相槌を打つのです。

 始業のチャイムが鳴って先生が来ました。昨日と同じようにしてプリントを数えています。僕はというと、ひっきりなしに流れる涙をハンカチで拭い、みんなと同じ動作をしようとしてているのです。僕の目は瞼がありませんから、絶えず涙が流れるのです。先生は僕の席の前でプリントを配り、僕と目が合ってしまいました。そして、頭を振りながら僕の横までやって来ました。

 「君、君はちょっと違うね。AR地区へ行って働きなさい」

 僕は『ハイ!』と答えてそのまま学校を出ようとしました。教室も学校全体も何事も無かったように静まり返っていました。

 僕は街に出ました。AR地区なんてどこにあるか知りません。でも都合の良いことに、僕の足は真っ直ぐにAR地区らしき方向へと向かってくれています。

 風は爽やかなリノール酸、ドブ川は絞り立てのヨウ化銀、排気ガスは香ばしいオキシドール、行き交う人達の体臭は酸化鉄の匂い、それぞれが調和のメロディを奏でて街は一体化して僕を包んでくれています。

 「あー、幸せだなあ」

 今度はちゃんと自分の耳に届きました。多分、僕は魚眼を付けたおかげで、幸せになったのでしょう。僕の心は弾み、ウキウキしているのですから。それに足取りもスキップとなり、鼻歌まで歌っているのです。そうこうしているうちに、AR地区に着きました。

《AR地区建設現場》

 と書かれた大きな立て札が目に付きました。ショベルカーが土砂をトラックに積み込んでいるその横に、プレハブの建物がありました。僕は迷わずそのプレハブに入りました。

 「働きに来ました」

 口が勝手に動いて中の人に告げました。必要な事だったら幾らでも喋れるみたいです。それは僕の意思とは無関係なのですが。
 ランニングシャツにGパン姿で、腕や肩の筋肉が盛り上がっている日焼けした二十代後半ぐらいの人が僕を迎えてくれました。彼は終始にこやかに、ここでの仕事について教えてくれました。

 僕はツルハシを持たされて、このAR地区の奥の方のビルディング建設現場に行きました。そこでは十人ほどの人がシャベルや一輪車を操り、働いていました。彼らは色んな服装をしています。背広姿の人も居ればTシャツを着ている人も居ます。中には女の人も居て、ハイヒールにタイとスカートで土を掘っているのです。

 そんな人達の内、三人が僕と同じ魚眼を付けていました。

 僕は懸命に働きました。でも報酬はありません。お金も他の何もくれません。なのに必死で働いてしまうのです。

 時々土埃が剥き出しの目に付きます。痛くって痛くってどうしようもありません。そんな時に決まってランニングシャツにGパンの人がやって来て、僕の目に付いた土埃を刷毛で取り払い、ワセリンを塗ってくれるのです。

 夕方六時頃になって仕事は終わりました。赤い、暖かい太陽がザラザラと頬を撫でます。なんという充実感! きらめく汗は水銀のように重く、髪の毛の間に詰まった土埃は粘り、固まり、ポマードみたいにしっとりしています。

 帰り道、スキップしながら歩いていると小さな女の子に出会いました。その子は転んだのでしょう。しゃがんで、膝を抱えて泣きじゃくっています。そこへさっきまで働いていたAR地区のビルディング建設現場のトラックが来ました。発電機や掘削機や、その他用途不明の機械を運ぶトラックです。

 そのトラックはちょうど女の子の横に来た時、マンホールの蓋でスリップしてしまいました。そして荷台に載せてあった小型の発電装置が女の子の上に落ちてしまいました。

 鈍い音がして、女の子の下半身は蛋白質の塊に変質してしまいました。でもまだ女の子は死んでいませんでした。小さな肩を激しく動かし、白目を剥いています。

 僕は女の子を助けようとしました。でもそのまま通り過ぎてしまいました。僕は必死になってようやく振り返り、足を止めようとしました。ですが駄目でした。そればかりか、なんとまたスキップを踏むのです。魚眼の縁から涙が止め処なく溢れてきます。でも、僕の心は弾んで、また鼻歌を歌うのです。スキップも一層軽やかになって、いつの間にか僕は笑っているのです。それは次第に高まり、声を出して笑い始めました。涙も次から次へと溢れてくるのです。僕は大声で笑いながら走り出しました。

 百メートルも走ったでしょうか。僕はメタンの香りを撒き散らす街路樹にぶつかってしまいました。それでも足は走り続けようとするのです。街路樹に衝突したせいで身体は横に足の向きに対して真横になりました。ですので、足だけが走るとなると自然にくるくると回転してしまいます。

 魚眼に写る街が歪んでいます。発電機に潰された女の子が見えます。ブリキの軽自動車が見えます。どろっとした飲み物を売っている自動販売機が見えます。行き交う人達のピンク色の足が見えます。ブティックのショーウィンドウの中の裸のマネキンが見えます。それはやっぱり店番をしてるマネキンでした。

 僕はそんな風に数十分も回転していました。これではバターになってしまうと心配しましたが、手足と頭の先っぽがとろけたところで回転は止んでくれました。でも笑いの発作はその後も少し続きました。起き上がって見ると、地面と擦れ合っていた部分は服が破れでボロボロになっていました。身体も思ってるよりバターになっています。

 これではみっともないではありませんか。調和の取れたこの街に相応しくありません。すると僕はふらふらとあのマネキンが店番をしている店に行ったのです。街に強制されたみたいでした。

 歩いている途中、魚眼の隅にあのトラックと女の子が写りました。既に鉄の塊のような発電機はトラックに積み直されています。女の子はどうでしょう? ああ、なんと哀れにも後続の自動車やバスやバイクや自転車に轢かれてぺしゃんこです。でもその風景はこの街の調和を更に美しいものにしていました。僕の魚眼からはまた涙が溢れました。

 ブティックでは女の形をしたマネキンが服を仕立ててくれました。僕の視界は同心円状に歪んでいます。その中のマネキンはみんな素っ裸です。ブティックのマネキンのくせに服を着ないのでしょうか。訊ねると、マネキンは悲しげに言いました。

 「私達は服は着れないのです。だって、誰も愛してくれないのですから」

 マネキンの言葉が僕の心を無感動的に揺さぶりました。そして胸の奥から言葉が出て来ました(言おうと思ったわけじゃありません)。

 「僕が愛して差し上げます」

 マネキンは動きを止めました。そして『一緒に暮らしましょう』と言ってくれました。

 それがこの街の調和に必要だったのでしようか。僕はマネキンと結婚したのです。僕はその日からブティックの二階に住み始めました。マネキンは綺麗なドレスを毎日着て、とても楽しそうです。彼女(かどうか知りませんが)は、掃除、洗濯、炊事などの家事を完璧にこなします。僕は毎日ブティックからAR地区へ働きに出ました。発電機に押し潰されて、車にぺしゃんこにされた女の子はもう道路の一部になっていて、安らいだ表情で空を見上げています。

 マネキンはとっても良く尽くしてくれます。でも僕は何故か悶々とした一日を過ごす事が多いのです。やがてその苛立ちの様な不安感は身体いっぱいに詰まってしまいました。

 ブティックの二階の僕の部屋からは電車や住宅や赤黒い屋根瓦がいっぱい見えます。遠くの方には工場の煙突が小さく幾本も聳え立っているのが見え、煙突からは灰色の煙が吐き出され、黄色い空をうっすらと灰色に染めて行くのです。それが僕の最後の魚眼風景でした。

 ある日、どうしてそんな事が出来たのか分かりませんが(多分、不安が身体に詰まり過ぎだのではないかと思います)、僕は突然自分の手で魚眼を取り外したのです。

 あまりに痛くてのたうち回りましたが、それも二、三日の辛抱でした。当然、何も見えなくなりました。でも今まで見えなかった力強い、形の無い何かが見え出したのです。

 僕はマネキンとブティックを出ました。力強い何かは、すぐ近く、手の届く所にあるはずなのですが、どうしても掴まえられません。だからマネキンとそれを追い続けるうちにブティックを出てしまっていたのです。

 僕達二人は、旅に出たのです。僕だけに見える、力強い何かを求めて。僕にはこの旅はいつまでも終わらない気がします。でも、それでいいのです。

おわり
関連記事
このエントリーのタグ: 武澤信幸 連載小説
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す